終業式でも朝の朝礼でも、どーしてこう校長先生の話というのは無駄に長いんですかね? いい加減うんざりですよ。おまけに言ってること毎回同じな気がしてきました。ますますうんざりなのです。誰か、校長の話は三分以内にまとめるとか、そう言う法律を決めてくださいませんかね? 切実にお願いしたい昨今です。 まぁそんなことはどうでも良いのです。今日三学期も終わりで来月からは六年生です。そして明日から短いながら春休みが始まりますよ。始まっちゃいます。ええ始まりますともさ。夏休みや冬休みと違って余計な宿題はないのです。ひゃっほぉ〜ですよ、ひゃっほぉ〜っ!! おっと、あたしとしたことが、はしたない。おほほほほぉ〜。そんな学校帰りの放課後、あたしこと霧島澄乃(きりしま すみの)――しし座の十一歳。現在彼氏募集中――は、彼を発見いたしました。 「……おんやぁ?」 【澄乃ちゃん計画 READY?】 ところで、しし座ってなんか雄々しくて嫌じゃないですかね? 男の子だったらウサギにツノ、あたし女ですし。どうせだったら豹座とかあって欲しかったですよね。豹座の女、略して女豹ですよ。ひゅ〜、かっこい〜っ。でも、現実どう考えても十二正座の中に豹座なんてないんですよね、おまけに誕生日は夏休み真っ最中なもんだから誰も祝ってくれなのです。くすん。 そんなこんなな状況を打破すべく、あたしは四年生の時から、クラスメイトの誕生日に片っ端から手紙を出すようになりました。そしたらあらあら不思議。夏休み後に誕生日を迎えた子や、夏休み前に誕生日を迎えた五年生になってからも同じクラスだった子から、誕生日にお手紙が届くようになりました。 うしゃしゃしゃしゃ、作戦成功でしたよ。しかしこの誕生日お手紙というのは貰ってもうれしいものですが送るのもなかなか楽しい作業でして、あたし発信のこのバースデーお手紙は今やあちらこちらで広まっているのであります。いわゆる局所的ブームってヤツです。ところで局所的ブームって言葉、どこかダサく感じませんか? あたしはそこはかとなくダサい気がしてなりません。 でも、携帯電話が普及している昨今だからこそ、わずかなおこづかいをやりくりして友達に届けるお祝いのメッセージ、素晴らしいじゃありませんか? おかげで去年の夏休みも、誕生日に友達からの温かいメッセージをいただきましたよあたしは。まぁ、暑中見舞い込みで送られてくると言うのはご愛嬌と言うことで。それでも、温かき友情に感謝なのです。色々とメッセージカードをあれこれと選んだりして楽しかったりするのも、未だに続く理由かと思われます。 おっと話がそれました。で、件の彼なのですが、それはもぉ〜見事なくらいに風景に馴染んでおります。これがパッと見た感じ、なかなかの美形さんでして、何故か少々薄汚れたなりをしていても、何故か道端に倒れていたりしても気にはなりません。むしろ気にしません。こういうとき、美形というのは得だなぁと思いますよ。おっと、このままではまた話がそれますね、今回は早めに軌道修正です。 で、そんな道端に倒れている彼ですが、絵にはなりそうでですが、実際はなりそうにも有りません、残念。なにせこの町はいわゆるホームタウンというヤツでして、集合住宅にショッピングモール、コンビニに学校と各種は取り揃えているけど、いかんせん若者と話題が少ないせいで、都会的雰囲気が一切漂わないという、真にもって中途半端な田舎なのです。いえいえ、あたしも立派に若いですよ? でも、実年齢が若すぎるので色々と相手にされないのですよ。かといって色々な物事に相手にされたいかと聴かれればそんなことはなく、つつましく人生すごしたいと思ってますよ、あたしは。 ああ、また話がそれました。いい加減進めましょう。そんな風景に馴染んじゃってる彼を、あたしは無視ししました。当然です。困っている人には手を差し伸べても、知らない人に話しかけたり、ましてやお菓子上げるから付いてきて、なんていわれたら即座に逃げるのが小学生の常であります。 でも最近じゃお薬なんかも手軽に手に入るみたいですから、後ろからいきなりクロロホルムとか嗅がされたら、お菓子どうこう逃げるどうこうじゃないと思うんですけどね。さて、そんな世の中でどう身を守ったらよいのでしょう? こうなるともう確率論の問題だと思いませんか? 「……そこの人」 はい? そこの人とはどこの人でしょう? あたしのことでしょうか? 周囲に人は……彼以外居ませんね。ありゃ、声をかけられてしまいましたっ。これは第一種接近というでしょうか? それとも誘拐マニュアルのファーストステップに書いてあることなのでしょうか? 後ろを振り返ってみると、美形の彼が必死そうな顔であたしのことを見上げておりますよ。やや、なにやら同情誘われますが、先ほども言いましたとおり、知らない人に声をかけられたら無視しろは、昨今の小学生では当たり前のことですよ? 「うん、そこで右往左往してるランドセル背負った君だ」 ……どうやら間違えることなくあたしのことを呼んだようであります。こういう場合は……、やはり逃げましょう。いや、逃げるのは釈然としません。というわけで第三十六番目の計略をとらせていただきます。別名、転進です。そんな具合できびすを返そうとしたところで、彼が言いました。 「申し訳ないがこれで何か、買ってきて、くれ」 それだけ伝えると、ぐんにょりと彼はまた地面をベッドにお昼寝を始めてしまいました。これまた、困りましたな。手に握られているのは千円札ですが、これではまるで奪ってくれといっているようなものです。かといって奪ったら奪ったで強盗犯になってしまいます。あたしはまだ少女Aの名で新聞の地方面を飾りたくはありません。でも、ここで彼と関わったら非常にめんどくさそうです。う〜む……どうしましょう? * * * あたしはコンビニ袋をぶら下げて、さっきの彼の元へとてふてふ歩いていました。 中にはおにぎり五つにペットボトルのお茶が一本。男の人だったらこれくらい食べられるでしょう。約八百円の出費ですよ。ご飯たちと一緒におつりとレシートも袋の中に入れて戻ってみれば、やっぱり彼はまだ寝ておりましたよ。そんなにお疲れですか? はたまた、そんなに空腹ですか? それ以前に思うのですが、倒れる前にコンビニで何か買おうとは思わなかったのでしょうか? まぁそんなことはさて置いて、コンビニへ向かったときと同じ格好でお昼寝してらっしゃる彼を、ランドセルに入れてあった三十センチ竹製定規でツンクツンクと突っつきながら呼んでみました。 「お〜い、生きてますか〜い?」 ……無反応ですかい? いやさそれではおにぎりとペットボトルを買ってきたあたしのご足労が、水泡に帰してしまうではありませんかっ!! 「起きてください、起きるのですっ!!」 ビシバシッ、ビシバシッ! 正拳と裏拳で往復ビンタをしながら彼の覚醒を促してみましたが起きません。ビシバシッというよりバキバキッって感じの音ですが、そこは気にしません。ええ、気にしませんともさ。気にしたら負けです。 「……いてぇよ」 「起きなさい、起きるべきなのですっ!!」 「いてぇよ」 「おおおおおっ! 起きるのですっ! 起きなきゃダメなのですっ! ここでおきなかったらあたしの努力が水泡に……」 「いてぇっつーのっ!!!!」 「はっ、起きましたか、良かったです。これであたしが買ったおにぎりとお茶が無駄になりません。さぁさぁ、たんとお食べください」 「……元々僕の金なんだけどな」 そういって彼はあたしからブツの入った袋を取ろうとしましたが、あたしは彼の前からヒョイと袋を遠ざけました。さも当然です。ご飯が遠ざかってしまい彼はキッとあたしのことを睨み付けましたが――もっとも、おなかが減って力がでないのでしょう。その目に迫力は有りませんでした――、そうは問屋が卸さないのです。 「買ってきたのはあたしなのです」 「だから?」 「言うべきことがあると思いませんか?」 「……ありがとう」 「はい。どういたしましてです」 ファーストフード店のお姉さんに負けない営業スマイルでニッコリと笑って袋を差し出すと、彼はぶっすーっとした顔でぶっきらぼうに袋をふんだくってしまいました。ちょっとカワイイ気もしますが、そういう態度は世間受けしませんよ? 営業といえど笑顔は人間関係を円滑にする、そう思いませんか? 一方の彼はと言えば、それはもうガツガツと言う表現がぴったりと来るくらいの素晴らしい勢いでおにぎりをほうばっております。よっぽどおなかが空いていたのでしょう。 「……っ!?!?」 あ、喉に詰まったみたいですな、お約束ですね。仕方がありません、ここは親切にキャップをはずして彼にお茶を差し出すことにしましょう。あたしってば優しいですね。 大急ぎでお茶を受けとった彼は同じく大急ぎでゴクゴクとお茶を胃袋に収めていきますよ。今度はお茶を気管に詰まらせたらば苦笑いですな。はっはっは。 「ゴクゴク……、ぷっはぁ〜っ、生き返った。ふぅ〜……って、なんでそんなにしょっぱい顔してんだ?」 「いえ、お約束を守ってくださらない方だなぁ〜と思っただけですので、どうぞお気になさらずに」 「? ま、いっか。改めて礼を言うよ。ありがとよ」 「いえいえ、どういたしまして」 いやぁ、こうも素直にお礼を言われると照れてしまいます。まぁ彼もどうやら復活してくれたようですし、素直に退散を決め込もうかとも思ったのですが、ここまで来ると最後まで付き合わねばいけない気がしてきました。毒を喰らわば丼までと、昔の人は言ったもんです。あたしもそれに倣いましょう。いえいえ、決して興味本位とかではありませんよ? 「ところで、中途半端に片足を突っ込んでしまった身として聞きますが、どうしてこんなところでお昼寝を?」 だんまりとたっぷり五秒ほど沈黙した彼が、唐突に言いました。 「……実は僕、記憶をなくしたみたいなんだ」 「ほぅ、記憶障害ですか。これまた珍しい人物と出くわしました。」 彼の仏頂面も不安を押し隠しているからでしょうか? それなら可愛げもあるのと思うのですが、そこは聴かないでおきます。あたしにもその辺を分別するくらいの常識はありますので。 「人生まだ十一年ほどしか生きてませんが、記憶を失った方とお会いするのは初めての体験です」 「……おまえさんさ、もうちょっと動揺したり慌てた素振りとか見せたりしてくれないかな?」 「なぜでしょう?」 「いや、なんていうかさ、ランドセル背負った子にこういうこと言って、リアクションが薄いとさ、こっちの方がどう対応していいのか分からなくなるんだよな」 「そういわれましても……困りました。別段驚くこともないと思っていましたので。まさか驚いて欲しかったとは……すいません」 「そこを謝られても……」 「悪いと思ったところはちゃんと謝っておかねばなりません。人間関係を円滑にするためには大切なことですから」 「左様ですか」 「左様です。ところで記憶喪失さん(仮)、あなたの記憶はどこからどこまでがなくなっているのですか?」 「記憶喪失さん(仮)て」 「名無しの権兵衛さん(仮)ではありきたりだと思いまして。それともお名前は覚えてらっしゃいますか?」 「……いや、覚えてない」 「そうですか。では、やはり記憶喪失さん(仮)で」 「まぁその辺はどうでもいいからいいんだけどさ。とりあえず言葉は喋れるみたいだな。字の方は少々怪しいが。名前とか想い出は……うん、なくなってる」 「そうですか」 状況の確認がしたくて聴いたことだったんですが、記憶喪失さん(仮)、己の記憶の飛び具合を把握してショックを受けている模様です。う〜ん、遅かれ早かれのこととはいえ、悪いことをしてしまったでしょうか? そう思って記憶喪失さん(仮)のほうを見ると、記憶喪失さん(仮)は少し困った風に笑ってから、優しく頭を撫でてくれました。少々汚らしいのが難ですが、それはこの際勘弁して差し上げます。なんとなく撫でられるのが気持ちよかったからではありません、断じてありません。 「ありがとよ。でも、おまえさんみたいな小さい子にそんな顔をさせちゃいけないよな」 これでも割とポーカーフェイスは得意な方だと思っていたのですが、どうやら顔に考えていたことが出ていたようで逆に気を使わせてしまいました。少々情けない気持ちです。それにしても…… 「いつまで人の頭に手を乗っけているつもりですかっ!」 「ああ、悪い。なで心地のいい髪だったもんでつい……」 「つ、つつっ、ついじゃないのですっ! そもそもついでで人の頭を撫でないでくださいっ!!」 「だから悪いって」 「今回はゴメンで済む問題ですから許してあげますが、ウサギにもツノにもあなたは汚いのですっ!」 「いつから風呂に入ってなかったンかね、僕?」 「そんなことあたしが知るはずありません! っていうかそんなに長いこと入ってなかったんですかっ。ああ、もうっ、ウサギもツノにもあなたを風呂に入れます。えぇぶち込みますともさっ!」 「ええっ、そんな、いきなり……悪いよ」 「悪いよと言っている割にどこかホッとしたような表情も記憶喪失ですからこの際許してあげます。うちのことなら心配せずにさっさと我がオンボロ住処へ行くのです。知らない人間を家に上げるほと人がよくもありませんが、記憶喪失で困っている人間にお湯を貸せないくらい悪くもないのです」 「あ、そう。その……ありがとう」 世の中には言霊と言うのがあって、発した言葉には魂が宿ると言う話を聴いたことがありましたが、あたしはこのとき始めて、この言葉の正しさを知った気がしました。それは、彼が言ったありがとうの一言が、あたしの心にちゃんと届いたから。きっとこの人は本当に困っていて、途方にくれていたのでしょう。それを助けることができて、よかったと思いました。 気が付くと、あたしは彼の手を引っ張って、我がオンボロ住処ことあたしたちが住まうアパートまで連れて行き、風呂場へと案内していました。 * * * さて、勢い余ってつれて帰ったのは良しとしましょう。どうやら彼は信用に足る人間なような気がしますので。……そんな気がするってだけで赤の他人をホイホイと上げていいもんなんですかね? いえいえ、ホイホイと上げたわけではありませんのよ? 勢い余ったのは確かですが、彼の言ったあの一言が、彼を信じても大丈夫だと思わせてくれたのもまた、確かなことなのです。 問題はこれからなのですよ。母が帰ってくるまでにはまだ時間があります。かといって夕飯の準備を始めるには少々早いのです。遊びに行こうにもあたしには友人と呼べる人間はほとんどいません、むしろないといっても過言になりませんし、テレビゲームなどと言う贅沢な物品を買えるほど我が家は裕福ではありませんので、そんなもので時間をつぶすこともできません。となるとやはり一人しりとりでしょうか? 一人あっち向いてホイにも惹かれる気がします。でもここは綾取りとか占いなんかが女の子らしくていいかもしれません。いっそあわせて綾取り占いなんてどうでしょう? 今度やってみることにしましょう。 いえいえいえいえ、そうではないのです。問題は、件の彼をどうしましょと言うことなのですよ。記憶を失った人間を、春先の夜空の下にほっぽり出すわけにも行きません。そんなこと、お天道様やポリスメンが許しても、この霧島澄乃が許しませんよ。きっと我が母も許さないことでしょう。ボロは着ててもココロは錦とはこういうときに使う言葉なのですよ、きっと。 ふむ。そう考えると、出てくる答えはおのずと一つに絞られますな。まぁ妥当な案でしょう。ウサギにもツノにも、彼が風呂から上がって、母が帰ってきてから、その話しは切り出すことにしましょう。二度同じ話をするのは効率が悪くて嫌いです。ああ、でも早くこの話を切り出しはしたいかもしれません。 おまけにここは一つ、ついでと考えましょう。ついでですよ、ついで。誰がなんと言おうとついでなのです。それ以上もそれ以下もあったもんじゃ有りませんです。ハイ。 そんなわけでついでに考えます。現在あたしには彼氏なるものがおりません、残念ながら。過去には告白なんぞということもしてみましたが……いえいえいえいえ、余計な情報は漏らさないでおきましょう。個人情報の漏洩はこういうところから起きるかもしれませんのよ。 それはさて置いて、ちょいと考えて見ましょう。これは、もしかしたら、世に言うチャンスというやつではないでしょうか? 「ピンチはチャンス」と誰かが言っていました。素晴らしい言葉だと思います、だからあたしもそれに倣います。得体の知れないもんを拾っちゃったんだったら、それを生かすチャンスに変えてしまえばいいのですっ! 物凄い屁理屈です、我ながら。でも、冷静に考えてこれはチャンスだと思うのです。 彼には記憶がありません、ってことは、新しい記憶を詰め込みたい放題です。頭空っぽの方が夢詰め込めるってカゲヤマさんも歌ってます。ってな訳で、ここはいっちょ可憐なる乙女の夢を詰め込んでいただこうじゃありませんか。なにせこちらは命の恩人。ちょっとくらい、恩を返していただいてもいいのではないかと思うわけでありますよ。 「お風呂、いいお湯でした」 「はいぃっ!! お粗末さまです」 「どうかしたか?」 「どうかしてなければあなたを拾ったりはしませんっ」 ……いきなり風呂から上がってくるもんですからビックリしました。ハイ。ビックリしてようやっとそれだけを返したのはよいのですが、何気にヒドイことを言いませんでしたか、あたし? なにやら彼も苦笑いを浮かべています。いやいやはやはや、人間動転すると何を言い出すか分かったもんじゃありませんな。 そんなあたしを動転させてくれた彼の風呂上りのサッパリとした姿を見て、あたしは改めてビックリました。そりゃあもぉ〜、ビックリビックリビックリマァ〜ンってなもんですよ。 汚い格好をしていたときは美形だと思ってはいましたが、風呂から上がってきてみれば、まさかこれほど大したことがなかったとは。見れば見るほど普通のあんちゃんです。どこをどう見たら美形に見えたのでしょうか? ちょっと自分の目玉が信用できなくなってきました。でも、さっきまであった小汚い感じは全くなくなって、これはこれで好印象を受けます。 とりあえずバスタオルを腰に巻いた格好では悪いので、彼が風呂に入っている間に洗濯しておいた洋服一式を彼に渡しました。こうやって男性の上半身ヌードをナマで拝むのは体育での水泳の授業のとき以外では初めての体験です。学校で見る男の子たちとは違って、もっとシャープな印象を受けました。それに硬いというわけではなくて、もっと柔軟な、それでいて存在を感じさせてるような、確かなぬくもりがあって、あたしは不覚にも、少し見惚れてしまいました。 それがバレないようにとごまかす意味も籠めて、洗濯時に何か入ってないかと衣服の中を確かめたこと、身分を証明してくれるようなものは何一つとしてなかったことを彼に伝えました。が、 「ああ、僕も探したけどなかった」 と普通に返されてしまいました。ま、確かに記憶がなくなって自分の身分を証明するものを探すのは常ですよね、当然彼がそれをしないわけなかったと言うことです。 「それでは、道端でお昼寝される前後に持っていたのは……」 「あの千円札一枚のみだったな」 「それはまた興味深いですね」 「興味深い?」 「はい、とても」 いささか意外だったらしいあたしの返答に、どうしてだい? と目で訴えているので、それにお答えすることにします。 「普通、男性と言えど丸裸でお札を持ち歩く、と言うことはあまりしないのではないでしょうか。小銭であればまだ納得がいきます、よく聴くお話ですので。ですがお札と言うのはちょっと不自然な気もします。いえ、勿論例外だってあるのでしょうし、単なるあたしの勘違いで、あなたは普段から丸裸でお札をポケットに突っ込んで歩く男性だったのかもしれません。それに、はてさてと考えます。果たして持ち歩くお値段に千円というのはいささか中途半端ではないか? そのようにして色々考えていくと空想の輪が広がって楽しいなぁ〜、と言うわけで非常に興味深いのです」 「……なるほどな」 「なにがでしょう?」 「いや、何か事件が解決するような手がかりを見つけてくれるのかなぁ〜、と密かに期待してただけさ」 「それはご期待にそえなくて申し訳ありません。ですがあたしは探偵業を営んでいるわけでもなければ、推理オタクでもありません。それに、万が一間違った推理をしてしまった時、責任を負えるほどの責任能力も持ちえていないのです。それでも確かに、あなたに淡い期待を抱かせてしまったことと、人の不幸で想像を広げてしまったことについては謝ります。すいません」 「おまえさんが謝ることじゃねぇよ。勝手に期待を抱いたのは僕の方だし、それに、記憶をなくしたのだって、僕がその原因の一つであるわけだし……」 「ああ、その件について、一つ提案があります」 「なんだよ? 金ならねぇぞ」 「そんなことは京も承知です。まぁそれはまた後ほど」 「余計なお世話だ。で、なんだよ?」 「そんな冷や汗をかくようなことでも後ずさるようなことでもありません、むしろ双方にとって有益なことですよ。それよりも、そろそろあたしは仕事をこなさねばなりませんので少々お待ちください」 「仕事って何だよ?」 「晩御飯を作るのです。この家ではあたしが食事の一切を担当しています」 「そりゃすげぇな。何か手伝えることはある?」 「それでは、買い物に出ますので、それにお付き合いください。子供手一つでは心細い可能性もありますので」 「お安い御用だ」 そんなこんなで、あたしたちはお買い物へといざ出発することになりました。 ……むっ? これはひょっとして、というかひょっとしなくてもデートの予行演習になりますね。相解りました。それでは早速彼にはあたしごのみの男性になっていくため、紳士のマナーを学んでいただこうと思います。 「ところでふと今疑問に思ってしまいました。あたしの理想の男性とは、どのような男性でしょう?」 「はぁっ?」いきなり出た話題にいぶかしげに聞き返した彼でしたが、あたしと目が合うと――今日これで彼のこの顔を見るのは何度目でしょう?――苦笑して「僕が知るわけないだろ……。いきなり何を言い出すかと思えば、なにを考えてたのさ」といいました。 「今言ったことほぼその通りです。あたしの好みの男性とは、どのようなものかと考えていました」 「どこでどう思考回路が繋がったらそんな話題がいきなり出てくるんだか」 上記の思考回路より出てきたものですが、それを説明するわけには行きません。そこでしばらく考えて、前々から一度言ってみたかった台詞をいってみることにしました。 「乙女の秘密です。……この台詞、言うと気持ちがいいですね」 「そうなのか?」 「ハイ。なんだか自分がたいそうな人間にでもなったような気になれます」 「うれしそうだな」 「はい。こんな台詞とは縁がないもんだと思ってましたから、使えて嬉しいです」 「ぷっ、なんだそれ?」 おや? これまで仏頂面と苦笑いしかなかった彼が、始めて普通に笑いましたよ。なにやら緊張がほぐれてきたのでしょうか? そうだったらうれしいですな。 ただ、このことを彼に伝えるべきか悩みますな。余計なことを伝えて要らぬ事態は招くべきじゃないでしょうし。 そういえば彼に居候にならないかと聞いてみるタイミングも考えねばなりません。おまけに、彼の名前も考えねばなりませんよ。おやおや、問題は山積みですよ。 「どうかしたか?」 やはりいぶかしんだ彼があたしを見ています。なんと言えばいいのかよく解りませんので、この場でもっともそれらしい台詞でもまた言ってみようかと思います。 「いえ、色々と考えねばならないことが多いお年頃なもんでして、気にしないで下さい」 「そか」 それだけ言って彼は前を向いてしまいました。手はブラブラと歩みに合わせてゆれています。いつかこの手があたしの手と絡むときが来るんでしょうか? まだ先のことは解りませんが、ウサギにもツノにもがんばってみようと思います。何事もまずは行動しなければ、なのです。 そうですね、さしあたってまずは彼の名前を考えるところから、はじめましょう。 これからあたしたちの時間が始まるんですから。これは第一歩なのです。 ふっふっふっふっふっ……、覚悟するのです。 おわり